四條畷神社について

四條畷市は大阪府の東北部に位置し、
市の約三分の二が北生駒山地でしめられている
緑豊かな場所であり、
西の軽井沢と称されています。

当社は飯盛山の山麓に鎮座し、
忠孝両全の名将楠正行公をはじめ
二十五柱の大神様をお祀りしております。

御由緒

御鎮座

住吉平田神社の神主、三牧文吾氏らが楠正行公殉死のこの地に神社創建を願い出て、 明治22年に勅許が下り、四條畷神社という社号が下されました。 これを里人が大いに喜び、境内地や金品を寄進され、老も若きも土を運び、石を積んで奉仕され、 明治23年4月5日に御鎮座祭が斎行されました。

御鎮座
御神祭

御神祭

主祭神楠 正行 公

配祀(四條畷の戦いにて殉節された二十四柱)

楠 正時命、楠 正家命・同人子息、和田賢秀命、 和田新兵衛命、和田六兵衛命・同人子息二人、大塚惟久命、 畠山興三命、畠山文郎命、野田四郎命・同人子息二人、 金岸某命・同人舎弟、関住良圓命・同人子息、三輪西阿命・同人子息、 河邊石掬丸命、譽田某命、阿間了願命、青屋刑部命

四條畷の戦い

四條畷の戦い

後村上天皇の御言葉

度々の敗戦に驚いた足利高氏は、腹心の高師直・師泰に 八万の大兵を授けて正行公の元へ向かわせました。

正行公も死を覚悟して吉野の行宮に参代し、 後村上天皇に 「この度は敵も精兵を集めて攻めて来ましたので、 私も生きるか死ぬかの大決戦を致します。 最後の思い出に陛下の お顔を拝してから参りとうございます」と申し上げ、 天皇も「私はお前を自分の手足の如く思い頼っているのだから 決して無理な事はしないように」 と仰せられました。

如意輪堂

天皇のお言葉に正行公は感泣して退出し、先帝の後醍醐天皇の御陵を拝し、 次いで如意輪堂に行き、一族143名の名を留めて、

かえらじと かねて思へば あずさ弓
なき数に入る 名をぞとどむる

の辞世の歌を記して、出陣されました。(この姿の銅像が飯盛山の山頂に建っています)

四條畷の決戦

正平3年正月5日(1348)、三千の兵を率い牧岡の往生院に本陣を置いた正行公は、 一挙北進し、深野池の東、野崎に構える高師直の先陣を打ち破り、 師直に迫ったが替玉に欺かれて取り逃がし、後方との連絡も絶たれ、 深野池の東北にて、弟正時と刺し違え23歳の若さにて殉節されました。

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